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【高砂市編④工楽松右衛門旧宅】東播磨ファンタジースタンプラリー
- 03_自由研究,05_見学・おでかけ,社会
兵庫県の理科実験教室、キッズアース播磨町校です。
工楽松右衛門氏は、この後、石を運ぶための船を発明したり、高砂の港や尾道の鞆の浦の整備事業にも関わったそうです。
さて、先日、東播磨地域で行われている「東播磨ファンタジースタンプラリー」についてお話しました(こちら)が、今回は「高砂市」を回りました。
「高砂市」の4つのポイントは
となっています。
今回は4つ目、「工楽松右衛門旧宅」です。
【松右衛門帆布】
工楽松右衛門氏(1743~1812)は、高砂生まれの偉人の一人です。
高砂では現在、「松右衛門帆布」(写真右)を使った様々な製品を作っていますが、この松右衛門帆布の生みの親でもあります。
高砂に生まれた松右衛門は、水主(かこ)として頭角を表します。
その頃、日本の船の帆に使われていたのは、筵(むしろ)や薄い布。
これでは十分に風を受けることが出来ません。
松右衛門は、播州織の技術を活かし、厚くて丈夫で軽い帆を作ります。
これは松右衛門帆と呼ばれ、日本全国に波及し当時の航海技術のレベルを引き上げました。
【択捉島と松右衛門】
18世紀に入ると、ロシアはカムチャッカ半島を手中に収め、日本にも興味を示し始めます。
エカチェリーナ2世の時代には、イルクーツクに日本語学校が作られるなど、積極的に日本への航海が繰り返されるようになりました。
『おろしや国酔夢譚』(井上靖)に描かれる大黒屋光太夫氏がアリューシャン列島に漂着したのが1783年。
イルクーツクを経由して、サンクトペテルブルクに至り、エカチェリーナ2世に謁見したのが1791年のことです。
日本、特に蝦夷(北海道)地域でのロシアの活動を受けて、1790年、幕府は工楽松右衛門氏に択捉島での埠頭建設を命じます。
大変な苦労があったことと思われますが、1791年には埠頭が完成。
なお、1799年には蝦夷地が幕府の天領(直轄地)となりますが、この後に、択捉-国後島航路の発見・運営や漁場の開拓を担ったのが、淡路島出身で函館を拠点に活躍していた高田屋嘉兵衛氏。
高田屋嘉兵衛氏の活躍については、『菜の花の沖』(司馬遼太郎)に描かれていますし、淡路には高田屋顕彰館・歴史文化資料館という立派な施設もあるのですが、それはまた別の話。この本の中にも工楽松右衛門氏が登場します。
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工楽松右衛門氏は、この後、石を運ぶための船を発明したり、高砂の港や尾道の鞆の浦の整備事業にも関わったそうです。
工楽松右衛門氏が主人公の小説も読んでみたい気がしますね。
見慣れている、知っているつもりで、久しく訪れていなかった風景を、少し違った目線で改めて訪問できたのは、新鮮な経験でした。
【工楽松右衛門旧宅】
さて、この「工楽松右衛門旧宅」は、周辺の駐車場など度共に、2018年に整備されたばかり。
本当に広い「お屋敷」で、2Fまで見ることが出来るようになっています。
1Fには、工楽松右衛門氏の生涯や、邸内の見どころをまとめたビデオを見られるコーナーや、様々な事業に関するパネル展示、また、建物としては復元されていないお風呂場などの遺構などを見ることが出来ますし、2Fには昔の高砂の様子なども展示されています。
「スタンプラリー」のパネルは、台所の奥、井戸の隣に設置されていました。
さぁ、これにて、東播磨ファンタジースタンプラリー「高砂市編」コンプリート!
見慣れている、知っているつもりで、久しく訪れていなかった風景を、少し違った目線で改めて訪問できたのは、新鮮な経験でした。
次は「明石市編」です!
- 高砂市,東播磨,スタンプラリー,高砂神社,工楽松右衛門旧宅,松右衛門帆布
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