キッズアース播磨町校「共明塾」

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【1.17】震災と入試

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1995年1月17日。
1976年生まれの私にとっては、入試(センター試験)と震災の思い出は切り離せません。
この年、私は高校三年生、現役の受験生でした。


【センター試験と自己採点】


1995年のセンター試験は、1日目が14日(土)、2日目が15日(日)という日程でした。
県下の高校生が50音順で各教室に割り振られるため、試験会場となった大学の大教室の中には、同じ学校の女子二人と、男子一人しか知ってる顔がありませんでした。
その男子が、文系理系に分かれてからはあまり話す機会もなかったものの、親しい友人だったのが幸いでした。
緊張する中ではありましたが、休憩の度に他愛もない話が出来たことが、良いリラックスになったのだと思います。

そんなセンター試験を終えて16日(月・振休)。
当時は、1月15日が「成人の日」で休日だったので、振替休日でした。
しかし、高校3年生のために「自己採点の日」として、学校が開いていて、男子女子もそれぞれ悲喜こもごもの唸り声をあげながら、センター試験の結果を見て、どこを受けるかを考えたり、先生に相談したり、という一日でした。



【1.17当日】

そして迎えた17日(火)。

岡山にある寮の三人部屋で寝ていた私は、突然の揺れに目を覚ましました。
他の二人も目を覚まし、「結構揺れたな」「これで学校休みになったりして」「まさかこの程度で?」なんて会話をしながら、それぞれまた眠りについたのを覚えています。

朝の点呼の時、寮監の先生から「今日は休校になる。ニュースを見るように」という話があって、ようやく何かしらの不安を感じました。

そして見たニュースの衝撃。
画面の中では、見慣れた風景が一変していました。

三ノ宮のセンター街のアーケードは崩れ、高速道路は倒れ、駅が真っ二つに割れています。
崩れた家屋、散乱する瓦礫、土埃…。

唯一の救いは、テロップで報じられる死者・行方不明者数が思ったより少ない事でした。
しかし、後で理解したことですが、死者・行方不明者数があまりにも多すぎたため、報告が上がるのにタイムラグがあり、テロップの数字が追いついてない、というだけだったのです。そのため、時間を追うごとに、テロップで報じられる死者・行方不明者数はどんどん増えていきました。それがあまりにも怖く、途中でニュースを見るのをやめてしまいました。

当時、神戸出身で寮に入っている学生がたくさんおり、家族と連絡を取るために、寮の公衆電話には長蛇の列が出来ていました。
まだ、携帯電話もインターネットも普及する前だったので、情報を得るのは主にTV、連絡を取るのは固定電話しかなかったのです。

「まだ両親に連絡つかへんねん。どうしよう?」と不安げに顔面蒼白で呟く友人に、選べる言葉は「きっと大丈夫やって」という気やすめしかなく、夜になって彼から「和歌山まで避難して、ようやく落ち着いたって連絡あってん」と聞いた時には、我がことのようにホッとしました。

今、思い返しても胸が苦しくなる、長いような短いような1日でした。


【瓦礫の街を抜けて】


神戸の街に入ったのは、東京での入試を受けるためです。
この時はまだ、震災の影響は大きく、新幹線は寸断されていましたし、大阪まで出るのも一苦労でした。

いったん大阪まで出て新幹線に乗るより、神戸の埠頭から出ていた高速船に乗り、関西国際空港から羽田まで飛ぶ方が良い、という親の判断があり、震災後1か月ほど経って、神戸の街に足を踏み入れることになりました。

それは、思っていた以上にショックな体験でした。

画面越しに見られる景色は、いわば「切り取られた」風景です。
しかし、実際に目にするのは、瓦礫の山が延々と続く姿。

その街の中を「入試のために」いわば「自分のために」抜けていくのです。
何かしらの「負い目」も感じなかった、というと嘘になるでしょう。

私がこの「瓦礫の街」に対して持っている記憶は、「通りすがり」のものでしかありません。
しかし、この街に住み、復興に携わり、命を懸けた方々が大勢いらっしゃいます。
語り部の皆さんの声に耳を傾けて頂ければと思います。



【やり残したこと】


当時、「サンデー毎日」という雑誌で、東大はじめ国公立大学の合格者の実名を掲載していました。
私が東京大学に合格した年、この実名公表号の表紙を飾ったのは、神戸にある長田高校出身の女の子の東大合格の笑顔でした。

神戸からは、灘高校をはじめとして、たくさんの学生が東京大学に進学します。
私と同世代の受験生たちには、それぞれのドラマがあったことでしょう。

私自身は、大学に入り、環境サークルに籍を置き、他の災害ボランティアにも出かけたことがあります。
しかし「ボランティア元年」と言われた1995年、夏休みの帰省がてら、神戸の復興のお手伝いだって出来たはずです。
なのに、他の地域には目が行っていたのに、「震災は大丈夫だった?」と他の学生からもずっと聞かれていたのに、「神戸に行こう!」と思わなかったのは、今思えば、無意識に「神戸」を避けていたのかもしれません。あの「瓦礫の街」を直視したくなかったからなのかもしれません。

この忸怩たる思いが、私の「やり残したこと」であり、
その分、やらなければならないことだと思っています。

今は、社会人として様々な制約もあり、自分に出来ることは限られています。
被災地の現場に行って…ということは、学生時代のようには出来ません。
その分、自分に出来ること、助けられること、何かあれば、手を差し伸べられる自分でありたいと思っています。






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